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Azukish

消えゆく世界と流れる未来に最後の灯を since 2006/4/3

2024/03/29

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2016/03/29

大学に入ってから今までのことをログってみる試み その三(研究室配属前後〜卒業)

その1→大学に入ってから今までのことをログってみる試み その一(大学に入学〜2年まで)|Azukish
その2→大学に入ってから今までのことをログってみる試み その二(2年〜3年)|Azukish

いよいよ本題に入ります。
研究室のことを書きます。いわゆる失敗話です。残念な大学の残念な研究室に入った残念な大学生が、その後どのような残念生活を送ることになったのか、そういう話です。
非常に残念なことながら、僕には残念な研究室でどのような生活を送れば残念でないと言えるものにできたのか、とか、全部残念に見える中で残念でない研究室はいかにして選ぶか、ということは分かりません。
たぶん、そういうことのヒントはNext49さん発声練習とかはてなで他の増田(マスター)の人が書いてるだろうし、ここで文章力の無い僕がそういうことを書いても仕方ないでしょう?
というわけなので、もうお察しの通りでしょうが、ここに載せるのは単純に愚痴です。


1. 研究室配属前

僕の大学では3年の終わり、だいたい10月くらいに研究室の配属が決まる。
9月ごろからどこの研究室がどうとかこうとかといった話で周りがソワソワし始める。
まあ、たいていの人は楽な研究室で楽しく過ごせれば良いらしい。
今までの経験上、あまり良い講義のできている教授を知らなかったし、どこの研究室に行ってもあまり変わらないように見えた。
僕としてはロンダリングする気満々だったので、旧帝大出身の教授のいる研究室に進むことに決めた。失敗だったけど。
あ、そうだ。その希望調査の直前に僕のところに同学年の名前も知らない奴から突然メール(〇〇君は××研究室に入る?成績良いからもしも〇〇君がそこに行くなら僕は違うところに行こうと思うんだけど)が来たりしたなー(笑)
それを答えることによって僕に何のメリットがあるというのか。
あと、結局同研究室に行った奴から「GPAと行きたい研究室の表作るから情報送れ」みたいな趣旨のメールが来たりとかしたなー。
「こうどなじょうほうせん」ってやつだな、いわゆる。
ぶっちゃけた話、僕は「奴はGPA四天王の(ry」みたいな存在だったと思うし、僕が一人そこの研究室に入ったところで枠はまだ3か4くらい残ってるでしょう?
とは考えないみたいなんだな、これが(笑)
まあ、そんなこんなで非常にその期間は不快だった。こんなになるのならもっと悪い成績を取っておくんだったと思うレベルで。

2. 研究室配属後(3年生)

(消去法的に)行きたいと思っていた研究室はそこまで高いレベルの人が行く場所でもなかったので、当然の事ながらその研究室へはすんなり入ることができた。
ロンダしたいと思っていた割には、その時はまだロンダの事についてそこまで詳しく調べていたわけじゃなかった。大失敗。
ただ漠然と「ロンダリングした後、そこで研究を進めるためにはこんなじゃダメだよな。基本的な研究能力くらいは身に付けていくか。だからスタートダッシュ決めておこう」みたいな感覚で、研究室入り直後から教授に直訴して研究を開始。
助教から「つらくなったら僕に相談してね」とか言われたが、その後、僕の質問や助けて欲しいという声に応えてくれることはなかった・・・。

ここで「僕はロンダしたい」という意思表示をするべきだったと思う。非常に後悔してる。
とりあえず、研究室で代々使われている解析用プログラムを開いて、動作の調査、くだらないバグ取り(動的に確保したメモリはきちんと解放しろよ!)や速度の劇的な改善(開く→1行だけ書き込み→閉じる→同ファイルを開く→1行だけryとかやってりゃ遅いわな)をしたり、
研究室で使われている機器や器具がどのような原理でそのような働きをするのかを調べたり、
簡単な実験をさせてもらうように教授に頼み込んだり・・・
まあ、あの時のバリバリ感は少し異常と言うか、ひたすらやってた感じがする。
そして、そのバリバリの最中でどんどん孤立化していった気がする。
研究をすればするほど周りとのレベル差が激しくなり、話が通じなくなる感覚、わかります?
プログラムに関しては教授も助教は基本ノータッチで、先輩に至ってはintやdoubleが何かすらわからない人たちだったので、どうしてそのような動作にしたのかを問うても誰も答えられない状況。
彼らにとっては今研究室内に存在するプログラムは完全にブラックボックスで、適当にやった実験の結果をそこに入れれば、少し時間が経った後に解析できるデータ形式にして出力してくれる魔法のアプリみたいな感覚だったのだと思う。よくメモリ周りのエラーで死んでたけれど。

もちろん、実験も内容が分かってやってたわけじゃないだろうから、結果の理由とかを聞いても意味のある答えは返ってこなかった。
そんな状況だったから最終的に仕方なく、教授や助教に研究や実験に関して質問した。何故か責められた。意味が分からなかった。
先輩のくだらない話にも少しだけなら乗ってあげたけれど、非常に下世話な話ばかりだったので、嫌になってしまった。
そんなこんなで研究室内でひときわ尖っていた僕にとって、研究室内の友達・話ができる人(?)はMSDNのリファレンスとStack Overflowくらいになりましたとさ。

3年の1月に入るか入らないかの時点で、その研究室の先輩を含むどの学生/院生よりも研究に詳しくなってた。
というか、その研究室内にいる先輩は根本的に落ちこぼれ的な人たちで、わざわざ研究室に来てゲームしかしていなかった。
そのときは過去の遺産(3つくらい上の先輩はそれなりに優秀だった、らしい)としてまだ研究室に潤沢に資金があったから、(ゲームをするための)非常に高スペックなPCや、(結局1回の実験でしか使わなかった)高価な機器とか、教授もそのへんについてはあまり考えることなく(研究に必要なら良いPCも必要経費だよねとか言ってた)、ポンポン買っていた。
なお、助教は学生室に鎮座しているはずだったが、その辺に関して異議を挟むことは一切なかった。というか、ほぼ置物状態だった。この時には研究はしてなさそうということは分かっていたが、彼が何をしているかは分からなかった。
もったいないなとは思いながらも、色々なものを使い捨てにしていたが、資金の使い方はやっぱりちょっと異常だったと思う。ただ、他の研究室を見ていないので、どうとも言うことができない。

3. 4年生になりました

3年から4年になるときに、大学を卒業した学部生の先輩はみんな再び大学院に入っていた。モラトリアムの延長かな?
そのときに院生だった先輩は1人は留年、もう1人はそれなりのところに就職したらしい。もっとも、就職した後に活躍出来てるかどうかは不明。
そのときに院の1年から2年に上がった先輩は3人いて、1人はそのままストレートで修了、1人は2年次で留年、1人は退学することになる。

このときの春休みは、研究に少し嫌気が差していたので、北海道に行ったりしてそれなりに満喫していた。
それからまた少し忙しくなって、練習でーとか教授に言われ、銅鉄のクソみたいな査読付き論文(院の2年の時に最終的にリジェクト)を出した。
最終的に酷い論文になったが、とにかく知らないことが多かった。
誰に訊いても知らないor教えてくれないor何故かキレられる、だったので、結局自分で全部なんとなくこれかなと思う道を選ぶしか無かった。結局それが原因でかなり間違いが起きて怒られることになったのだが。
あと、論文執筆の初期の頃に論文書くならTeXっていう偏見があったので、それで書いて持って行ったら「TeXは糞だからWordを使うべき」ととうとうと語られた。
それで、Wordで書いたら色々ズレたりとか汚くなって、やっぱり論文書くのにWordは向いてないと思った。それが原因で「君の書く論文は云々」とか説教喰らったけど、当時の自分のWord力はそんなもので、
「Wordにおいてレイアウトを行内以外に設定したテキストボックスに画像とテキストを書いた場合にアンカーが表示されないバグがある」とか、「EPSファイルは一応張り付けられるが、表示が汚くなり、印刷時に綺麗に印刷される保証は無い。EPSファイルからEMFファイルに変換し張り付けるとある程度綺麗に表示されるが、アンチエイリアスが効かないことがある。またそれでもズレない保証は無い」とか、「複数の300dpi以上のpng画像ファイルをレイアウトを行内に設定し張り付けた場合、その画像ファイルのサイズ如何に関わらず改行時に動作が大幅に遅くなる」とか、知らなかったし(笑)

で、あれでもないこれでもないをしながら、一通り書いて持って行き、添削をお願いしたら、全部ダメで書き直しと返ってきた。もちろん一発で完璧なものを書けるわけが無いから、さらに自分であれこれ書き直して持って行くと、「もうこれは添削できるレベルじゃなく、一から書き直してやるから、どういう風に書くか学べ」というので仕方なくハイと頷きそれを待った。
結局、書き直しと称するものも僕の書いたやつをブラッシュアップさせただけのもので、僕の書いたものをそのまま使っていたところもあった。どこがどうダメなのか教えてくれさえすれば、そこを直したのに、と釈然としない気持ちでいると、「こういう文章を書かなきゃいけないのだ。君のは間違いだらけだったよ」みたいなことを言われた。
これが教授の言う理想的な教育的指導法というもの、らしい。

書き終わり、提出することがまた困難だった。どこ論文誌に提出するのかも知らなかったし、どのページからやれば良いのかも分からないし、共著者に関してもあれこれと教授と話し合わなければならなかった。
論文提出のページも論文誌によってフォーマットや入力するフォームが違って、どこどこに提出する場合はこのようにやる、という解説も特に無かったため、また、誰に訊いても教えてくれなかったため、ひたすら不安になりながら全部自分でやるしかなかった。
この間、助教が僕の助けてに応えてくれることは一切なかったことを付け加えておく。

4年には取るべき単位が卒業論文以外に足りないものは無かったけれど、資格のためにいくつかと、個人的に興味があっていくつか他専攻の講義と、それから院の講義の先取りをいくつか取った。もっとたくさん取っておけばよかったなーとは思うけれど、他専攻の講義は自分の専攻の講義よりもずっと聞いていて面白かった。

夏に学会発表に行った。論文の書き方、投稿の仕方、テクニカルワードなどなど知らないことが多すぎて、つらい思い出しかない。
教授とそこの学会の主催者が裏で話し合っていたらしく、僕はそういうわけで賞を取ることができた。完全に八百長だったので嬉しくないです。
さらに学会発表が続く。今度はインドネシアで発表した。それが普通なのか分からないが、半額くらい実費で10万くらい飛んだ。そこでも主催者と教授が裏でゴニョゴニョしていたらしく、発表自体は完全にやっちまったはずなのに、賞を取ることができた。
この辺りで外堀を埋められていることに気付いたが、手遅れだった。
学会発表に関する準備が忙しすぎて、完全にロンダのことは頭から吹き飛んでいた。その辺で他大学の大学院の入試が始まるのに何も準備出来ていなかった。
そのことを認知した頃にはもう手遅れになっていた。完全にアホだった。
就活もやっていなかったので(できなかったので)、そこの大学院に入るしかなかった。幸か不幸か、GPA的には上位にいたので当然のことながら推薦で入試はすり抜けることができた。

論文の直しをしながら、徐々に卒業論文のシーズンに入る。
卒論は学会発表でやった内容を少し手直しして発表することになった。理系は基本的にそんな感じになるらしい。プログラムも即席で作ったため、結構バグがあるのは承知だったが、査読付き論文のレビュワーからの修正指示との並行であったため、デバッグする時間が無かった。
そんなこんなで超テキトーな卒論ができ、発表に至る。
それでも研究室内で考えると一番良い内容だったのではないかと思うほど周りはお察し状態だった。というか、1月から実験を開始し、卒論発表(2月中旬)の前日に実験が終わっていないバカがいた(笑)

そんなこんなで無事卒業し、院生になりましたとさ。

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