「中国はわらったよ。」
「アメリカはかぷかぷわらったよ。」
「台湾は跳てわらったよ。」
「ベトナムはかぷかぷわらったよ。」
「マレーシアはわらっていたよ。」
「韓国はかぷかぷわらったよ。」
「それならなぜ日本はわらったの。」
「知らない。」
「『もったいない』は死んだよ。」
「『もったいない』は殺されたよ。」
「『もったいない』は死んでしまったよ………。」
「殺されたよ。」
「それならなぜ殺された。」
「わからない。」
「僕らはわらったよ。」
「わらった。」
ってね。
非常に残念で、どうしようもないくらいにやるせなくて、それでいて情けない話だが、「もったいない」という言葉は、今の日本からは消えてしまったらしい。
まあ、自分がその蔓延に一躍買っているというかもしれないが。
そして、その原因となり始めたのは、おそらくは明治時代くらいに遡るんじゃなかろうか。
たぶん、和服が洋服になり始めたころかな。
ただ、そんなことを恨んだり、「明治政府がどーのこーの」だとか、「現代の若者は云々」と言うような意志は少しも無い。
そして、子供や親、老人を迫害するような意志も無い(老人に関してはほんの少しあるかも)。
あくまで個人の意見なので断定はしない。
この意見に目を通すのも、見ずに戻るボタンを押すのもその人の勝手。
著者のAzukiに文句を言うのも、コメント欄に反論を書くのもその人の勝手。
ただし、感情的な文句はやめてほしいかな。
単刀直入に言うと、現代において、「もったいない」という言葉が作る価値はゼロかもしれないということ。
今の世の中(大量生産大量消費)では、大事に使っていくことよりも、捨てることを選択して新しいものを買った方がコストが低くつくことがある。
このコストっていうのは値段のことだけじゃない。
感情的にも気に病まずに済むということ。
良い例が百均。あれはもともとすぐに壊れるようにできてる。作られている。
洋服だってそんなのが多い。高くても擦れてきたら終わり。捨てて新しいのを買いましょう。
アップリケなんて格好悪いって思っている人が大半なんじゃなかろうか。
自分もそんな一人。ジーンズくらいしか修復して使うことを想定して作られていないだろう。
例えば、
いろいろなものをもったいないを理由にとっておく。
→部屋がガラクタまみれになる。
けっこうみんなこんな体験をしたことがあるはずだ。
かく言う自分もその一人。
他にも、ファストフードのチェーン店など、食にも言うことができる。
もちろん、まだ賞味期限の来ていない手つかずの食品がそのままゴミ袋に入るのは問題だと考える。
そうじゃない。
ファストフードにおいて、
少し注文した量が多すぎて残す→捨てられる
っていうのはそこまでめくじら立てて責められるようなことでは無いと思う。
例えば、この反論の一種として、「貧しい国」を挙げて来るとする。
ただ、この量を全て食べたところで、貧しい国には米一粒も行きはしないんだ。
むしろ、「注文しすぎてしまったな」と反省することにより、「次からは少なめに」というように改善していくことが求められるのではないか?
次は「もったいない」ブランドの製品。
エコバッグ、マイ箸、水筒・・・。
最近、すごい注目されてる。
逆にビニル袋、割り箸、紙コップ・・・。
これらが色々な人に批判されている。
もともと、割り箸や紙コップが使われる理由が「衛生」ならば、おしぼりはどうなのよ?
そう、割り箸や紙コップが常に衛生的である保証なんて無いんだ。
ただ他の人の口に入っていない→衛生的
という短絡的ともとれることをやっている、それが問題なんじゃなかろうか。
この観点から見たマイ箸、水筒ならば非常にいい考えだと思う(使った後に洗っていれば)。
また、同様に「スーパーのゴミ袋をどうせすぐに捨ててしまうし、最近ゴミ出しの袋の値が上がったから」とか、
「スーパーのゴミ袋の耐久性がショボい」とか、「スーパーでエコバッグ値引きやってる」とか、
そんな理由ならば、エコバッグも十分にいい選択だと思う。
ただ、「エコで」とか、「地球温暖化が」とか言っているのはどうなのだろうと思う。
別に地球温暖化が起きたからといって地球さん(地球に宿る神様的な存在?)が嘆くわけでもないし、
地球上の生物がどんどん絶滅したところで、別に「関係ないじゃん」で済まそうとすればそれで済ませることも可能だ。
さらに言うならば、「ゴキブリとカブトムシの違いを言え」と同じような論法で
「タンチョウとシラサギの違いを言え」とか「ニホンザリガニとアメリカザリガニの違いを言え」
みたいな反論ができるわけだ。
ぶっちゃけて言えば、最終的に「人間がこの先どうやったら長く繁栄し続けてていくことができるのか」に帰着すると思う。
だから、地球温暖化が起きちゃ困る理由として、「大雨が増える」とか、「そもそも夏にこれ以上気温が上がったら嫌だ」とかを挙げるのならば、いいのではないかと思う。
地球温暖化とか、もったいないとか、エコとか、そういった言葉を聞くと、原生林のシーンとか、氷河とか、もしくは白熊、高くてきれいな山などなどを思い浮かべる人が多いのではないか。
個人的にはそこに問題を置きたい。
もっとずっと生々しくて、非常に人間生活に密接に関係しているということを主張したい。
話がずれてしまったか。
つまりは、もったいないを環境に適用するのはやめようということ。
別に、もったいないという言葉自体は非常に素敵で、綺麗な言葉なんだ。
ただ、それを企業の儲け話とか、そのようなものに使うのはどうかと思う。
だから、そんな風に使われ始めたときからすでに「MOTTAINAI」は死んでるんだ。
そしてすでに「もったいない」はずっと昔に死んでいたんだ。