かわいそうな人の話が書いてある本を読んだりとか
嘘を書き込むための心のノートとか
作り話を紙に書いて先生に提出したりとか
そういうことがざらにあったし、個人的には道徳やるなら外出て遊ぼうぜ!と思っていた。
それに国語でも科目の道徳的な内容を扱うことは多い。
例えば、「ちいちゃんのかげおくり」とか「きつねのでんわボックス」とか、そういうの。
特に戦争の内容は一年に一回くらい扱ったんじゃなかったっけか?
それにプラスして道徳の時間でそういう内容を扱うのはどうなのか?とは思う。
しかもそれによって道徳の心的なものが身に付いている人が多いならまだしも、いまいちその効果が無いような気がする。
子どもたちによる殺人が増えている、という話がある。
が、実際は50年代とか60年代の方が多かった、というデータがあるのでアテにならない。しかも高齢者犯罪の方が増えてるとかいうデータがあるし。
(
警視庁の統計:第14 犯罪少年(刑法犯)の検挙人員(年次別))
(
平成20年版犯罪白書のあらまし:〈第二部〉特集「高齢犯罪者の実態と処遇」)
しかも、未成年による犯罪を犯した人の”比率”も増えるどころか減っているのが分かる。(
平成25年版 法教育用リーフレット(法務省:犯罪白書))
ただ、しかしながら、理由の良く分からない、いまいち釈然としない(大人たちには理解できない)、そういう犯罪が増えているというのは事実のようだ。
「人を殺したかった」とかいう理由での殺人が、数年に一度起きて、その都度新聞やテレビで大きく報道される。
しかし、それ以上の突っ込んだところへ話は進まず、世間を賑わせておしまい。
または場当たり的な施策をしておわり。
そんな対応だから、似たような事件が起きるのではないだろうかと思う。
で、命の大切さとか、そういう話に行き着くわけだ。
どうすれば命の大切さが身につくのかという議論に際して、
かわいそうな人の体験談/お涙頂戴系の話を読んで聞かせればおkだとか
戦争で傷付いた人の話を聞かせれば効果があるだとか
ウサギを飼えば解決するとか
そういう低次元で話をするのはやめよう(戒め)
というのが自分の思うところだ。
というのも、身近で命を感じられる瞬間というのが少なくなってきているのは確かだ。
例えば、食べているものとか。
スーパーで並んでいたり、レストランで食べたりするもの。
あれは実際には
どこかで育てられ
どこかで殺され
どこかで調理され
ているというのを考えたことがあるだろうか?
または野良猫がいたとして、
どこで生まれ
どこで飯を喰らい
どこで轢かれたり、保健所の人に連れて行かれて殺されたり
しているのだろうかと考えたことはあるだろうか?
野良猫の場合は、道端で転がっていると、そのうち路上を清掃する車が来てゴミにされるのだろうが(実際に見たことがないのでなんとも言えない)。
そういう命を感じられる現場から遠ざけられて育てられているというのが、意味不明な殺人の理由だったりしないだろうか?
道徳的な~とか語る人に限って
ゲームなどの仮想体験→殺人
という変なロジックを考えるけれど、
お涙頂戴系の話(仮想体験)→殺人抑止
というロジックは成り立つのだろうか。
両方ともに共通するのは仮想体験である点であるが、ゲームが殺人とが関係しているというデータはないし、
そういう風に考えるとお涙頂戴系の話が殺人と関係するというのもあまり無いんじゃないだろうか。
要はもっと実体験に基づいた教育をするわけであって、仮想体験でクリーンな社会を目指すだけというのはどう?という話だ。
だからこそ、例えばニワトリを飼って、殺して、喰うとか
犬を死ぬまで飼って死んだ時に思ったことを作文に書かせてみるとか
そういう生死についてもっと考える/考えさせるような内容にしていくべきなのではないだろうか?と思う。
そういうことに評価が付けられるわけがないし、評価で判断するべき内容でもない。
だから、道徳という科目、という評価が不可避になるような科目を作るべきじゃないし、
今の科目のくくりでいうところの「総合」の一環として、そういうことをやり、発表していくべきなのではないだろうかと思う。
まあ、そういうことをきちんと指導できるような先生が現状ではいないし、
将来先生になるような人を教育するような大学はとりあえず専門だけを教えているのが現状なので、
多分これからもしばらくはこうした良く分からない殺人が起こり続けるのではないだろうかと考えられる。